三農生の頃〔第9回〕
北里研究所では、天然痘予防の痘瘡ワクチンは牛を使用するため鹿児島県で、狂犬病、日本脳炎、豚コレラ等のワクチンは都内目黒区の目黒支所で、馬を使用するジフテリア血清、破傷風血清、マムシ毒血清と、兎を使用する腸内細菌因子血清は、十和田市の三本木支所で行って来たが、目黒支所も周囲に住宅が密集してきたため移転を迫られ、また、社会情勢の変化により前記の伝染病が少なくなったことに伴い、製造法も進歩したので一箇所に統合することになり、昭和38年2月小生は従業員や馬と共に十和田市より、千葉県柏市に新設された附属家畜衛生研究所に移動した。小生は青森県獣医師会より千葉県獣医師会に移り、目黒支所から移った獣医師も、東京都獣医師会より千葉県獣医師会に移った。
千葉県獣医師会組織は開業部会、公職部会、家畜共済部会、団体会社部会に分かれており、さらに公職部会は農林部会と公衆衛生部会とに分かれ、北里研究所の獣医師は団体会社部会に所属した。各部会あるいは個人にとって利害が対立する場合もあり、特に開業部会は収入に直接影響するので、露骨な表現も多く不快な場面も多かった。
北里研究所は学術研究とワクチン血清のメーカーとしての二つの立場があり、学究肌や社会性の乏しい獣医師が多く、県獣医師会活動に所長以下消極的で、小生が十和田市から着任すると待っていましたと県獣医師会の担当にさせられた。十和田訛りが強く方言も出るので、失言しても違った意味で誤解されたと逃げられるからと思ったかも知れない。以降二十数年千葉県獣医師会活動に従事し、理事や副会長も経験した。
開業獣医師にとって、春秋二回2回の狂犬病及び豚コレラの予注射や、馬の伝染性貧血症の検査等は、一箇所において短時間で、しかも多数処置が出来かつ収入が確実なので大関心事であり、サラリーマンのボーナス感覚だったと思う。十和田で同様の業務があったものの、千葉県では犬や豚の頭数が一桁違っていた。すなわち収入が10倍になるので、一頭当たり単価の件で県獣医師会長が開業部会から攻撃されるのが慣例であった。隣県の茨城県における獣医師の待遇を比較すれば格段の差で千葉県が低く、このため千葉県獣医師会長の努力が足りないとか、説明や交渉が下手ではないかとか、政治力が無いとか、会議の都度会議なのか吊るし上げか判らない有様であった。青森県の獣医師会にいたときは、三戸の澤田操県議(三農大正11年卒)や嶋本利三郎十和田市議(三農昭和7年卒)等先輩の見事な政治力で、会議が平穏なのに慣れていたので最初は驚いた。事務局の方に尋ねたら、茨城県の獣医師会長は多くの要職に就き、県議も連続5期当選し県知事も国会議員も一目置く全国的にも有名な方で、比較されるのは気の毒だと言っていた。
昭和38年9月に茨城県参議院地方区の補欠選挙があり、話題の獣医師会長が県議を辞任し参議院選挙に立候補して当選をはたした。翌日の新聞を見て驚いた。当選された方の氏名は鈴木一司氏、学歴は青森県畜産学校(三農の変更前の校名)とあるではないか。長野県の野溝先輩に続く国会議員の誕生である。(溝先輩は前号で触れたように小作農民の救済に24年間体を張って奮闘したが、終戦後占領軍の一片の指令により小作農民が自作農民になったことにより野溝氏は目標を失い、その後は日本社会党の国会議員としての活動に終わった。)ここで茨城県獣医師会長として勇名を馳せた鈴木一司先輩の足跡を辿って見よう。
鈴木先輩は明治30年2月28日、茨城県の太平洋沿岸で福島県よりの多賀郡高萩町で生まれた。小学校卒業後茨城県の最高水準の水戸中学校に入学し、3年終了で退学し我が母校青森県畜産学校に受験(受験場所は青森県県庁から依頼された茨城県庁で)、三本木から電報で合格通知が来たという。入学手続きに三本木に赴き安野旅館(屋号が )に泊り無事手続き完了、早速寄宿舎に入ったが、火事で焼け出され安野旅館に下宿したが、校長の芳賀先生も下宿しておられ仲良しになり、後日校長の排斥運動が起きたときも同調しないで反対したという。
小生が子供のころ安野旅館といえば町で一番格が上で、旅館の前には乗用車1台と人力車が数台並んでいて、泊り客は高級官吏や高級将校が泊るところと思っていたが、大正の初期に安野旅館に下宿するとは生家が裕福だったのだろう。また、校長が下宿していたのは、当時の校長は学歴職歴とも超一流の方々ばかりで、ご自分の子弟の教育上、家族を僻地に住まわせられなかったからだと思う。
ちなみに、初代校長は弘前市出身で米国インジアナ州ブルダウ大学卒業、ミシガン農学校や農事試験場に勤務し、滞米10年以上で帰国された方。2代目は札幌農学校農学科卒業、中継の校長心得は、東京帝国大学農科大学獣医学科卒。三代目は東京帝国大学農科大学農学科卒。4代目は札幌農学校卒業。5代目は校長心得を2回勤めた東京帝国大学農科大学獣医学科卒の高尾校長。6代目は東京帝国大学農科大学獣医学科卒の芳賀校長であった。芳賀校長と鈴木先輩が同じ旅館に同宿していたとは、現代では考えられないことです。
安野旅館は昭和16年の大火により消失したが、もともと安野家は三本木開拓の恩人新渡戸傳の子孫で、十和田河畔休屋で観光館を経営し、小笠原八十美氏の旅館「大陽」と競いあっていた。新渡戸稲造の五千円札が発行されたとき、鈴木会長が茨城県獣医師会長をやっておられたが 、会う人毎に「五千円札の叔母の家に下宿していたと話していた」と常務理事をしていた麻布獣医の同級生から聞いたことがある。
天皇陛下が皇太子で学習院大学に進学のときに、安野家の長男(小生の愚弟五郎が三本木小学校の同級生)が、八戸高校から学習院大学に入学し皇太子殿下の御学友となり、夏冬春の休み毎に学習院の制服姿で三本木の町を闊歩したものだ。卒業後は十和田市役所に勤めたが、皇太子殿下の御成婚等、節目ごとに御学友として東奥日報に談話が載っていた。
※閑話休題※
鈴木一司先輩は大正5年青森県畜産学校を卒業し、農商務省栃木種馬所に勤務したが、大正7年12月で退職し郷里高萩に帰り、大正8年1月高萩家畜市場常任獣医師、同年5月多賀郡産馬組合の獣医師も兼務、馬や牛の臨床獣医師として活躍した。傍ら大正9年高萩町に振義会道場を建設、剣道と柔道の普及指導を行い、青少年の心身鍛錬につとめ、日本剣道連盟より4段の資格を認められた。大正の末ごろの4段は現在なら6段教士ぐらいの腕前だったと思う。小生も学生、軍隊で3段だったものが、戦後弱くなるのに反比例して4段となりさらに5段となり錬士につらなったが、鈴木先輩は真に実力があったと思う。
臨床獣医師として14年間勤めたころ、周囲から推されて昭和8年高萩町町議に連続3期当選したが、2期目と3期目は戦時と戦後の混乱期で一期5年で計14年間勤められた。新憲法による選挙が昭和22年全国で行われ、多賀郡定員4名の県議選挙で最高位当選し、2期目昭和26年に副議長になり、28年議長を2年勤めた。3期目より高萩市定員1名で昭和30、34,38年と連続当選し、5期目当選後突然辞任、参議議員茨城地方区(補欠選挙)から出馬し当選された。昭和40年まで2年間参議院議員を勤め議員活動を終えた。このとき齢68歳であった。鈴木先輩が昭和22年4月茨城県県議に当選し戦後新時代に、次々に各方面の要職に就いたが、その活躍範囲の広さに驚嘆するのみである。少し長くなるが具体的に主なものを列挙し参考に供したい。
昭和22年4月(以下、昭和を省く)に茨城県(以下、県という。)獣医師会長に就任、在職49年50歳より99歳までまさに天職であった。22年5月多賀畜産農協組合長に就任(在職29年)終生顧問を務めた。23年6月県畜産農協連会長就任(在職22年)45年辞任顧問に就任、23年県治山協会理事に就任、25年には会長に就任(在職29年)49年辞任顧問に就任、24年関東地方競馬組合議員に就任37年辞任(在職13年)、24年地方競馬全国協会評議員に就任37年辞任(在職13年)、24年10月県林業協会理事に就任、29年より協会長に就任、44年5月辞任(会長在職16年)顧問に就任、27年県装蹄師会長に就任37年辞任、27年県森林審議会委員に就任、56年辞任(在職29年)、28年県草地協会長に就任55年辞任(在職38年)、30年県農業会議員に就任55年辞任(在職25年)、30年県新市町村建設審議会委員長に就任43年辞任(在職13年)、30年県畜産会長に就任60年辞任(在職30年)、41年4月社団法人中央畜産会理事に就任45年辞任、42年県農業共済組合連合会損害評価会長に就任60年辞任(在職18年)、43年県肉用牛協会長に就任50年辞任(在職8年)、45年県農政審議会長に就任55年会長辞任、委員は継続、47年県家畜畜産物衛生指導協会長に就任60年辞任(在職13年)、48年県畜産振興協議会長に就任60年辞任(在職12年)、以上主な役職を挙げたが他に委員や理事が多数あるが省略します。
ひとたび就任すると長期間在職する点が注目される。北里研究所の販売担当で北里薬品の専務、椿精一氏が昭和28年参議院全国区に無所属で出馬し惨敗し、34年社会党から出馬し、次点の次で落選した。鈴木先輩は、県議1期目は無所属、2期目以降は自由党―自民党で政治活動をしていたので"社会党の北研からワクチンを買わない"と態度を硬化し、茨城県での販売量が激減した。茨城県は養豚数が全国一で、お得意様を怒らせて大変困った時期があった。10年たって愚弟の五郎が営業課長になり、鈴木会長の忠僕の常務理事がたまたま私と麻布獣医の同級生であったことから、"五郎をよろしく"と頼んだら"孟ちゃんの弟なら一肌ぬごう"と鈴木会長に五郎を会わせ"三農の後輩だ"と言ってくれた。このことにより後々少しずつ販売量を増やしてもらい、それが五郎の成績となった。人との繋がり、先輩後輩の関係が見事に生かされ嬉しかった。
鈴木先輩は、眉も鼻下のカイゼル髭も真っ白で手入れが行き届いていつもピンとしていた。たばこは若いときには吸っていたらしいが、50歳過ぎて禁煙、年ごとに禁煙が厳しくなり、会長の出席する会議や会合では禁煙が慣例になり、ヘビースモーカーは困ったらしい。関東獣医師会連合会長とし総会や学会での壇上の端正な姿が、今でも眼に残るが、同席での喫煙を極度に嫌ったのは、自慢の白眉、白髭がたばこの煙で茶色になるのを防ぐためであったかも知れない。(北研の幹部でヘビースモーカーの白髭がたばこの煙で茶色になっているのをこの眼で見たので・・)
小生は鈴木先輩の頭脳、剣道、容姿に遠く及ばないが、たばこを吸わないことだけは一致しているのでこれを見習って、後輩諸君に健康維持のため禁煙を強く奨励しようと思う。
偉大なる鈴木一司先輩は平成9年3月百歳と一か月の充実した生涯を終えられた。平均寿命が年々伸びているので、われわれ後輩も先輩にあやかって百歳まで健康でいられるよう努力しようではありませんか。(昭和13年度獣医科卒業、元北里研究所員、医学博士)