追 憶 《私の歩んだ道》 第4回
昭和36年夏営林署の実習を終え、高校生活を楽しんでいたが、クラスメートが進学や就職活動に一生懸命取り組んでいるのに、のんびりしている自分がこれでいいのかと、自問自答を繰り返し、都会には絶対に行くまいと決めていたのに、このまま一生山仕事で終わっていいのかと自己矛盾に陥ったものの、日増しに都会への想いがつのっていく思いを抑えることが出来なくなっていた。
担任の先生に東京方面の就職口をお願いしても、「未だ決まっていない生徒が多い中で、君のように営林署に内定している者は後回しだ」といわれ、悶々とした日が続きました。
11月中旬担任の先生から「東京のマッチ会社から求人があるが、どうする?」と話があり一も二もなく飛びつきました。入社試験(筆記)、面接を終え待望の内定通知をいただき、喜び勇んで親に相談もせず会社と仮契約をしたのです。その年の暮れ会社から正式に入社通知書と、上京する際の支度金が実家に送付され、父親にバレてしまったのです。世の中のことなどよく分っていなかった私は、営林署との二重契約などまったく頭に無く、父親にきつく叱られたが、私の決心に父も折れ、営林署へ一緒に頭を下げに行ったが、担当課長から「君は若いんだから東京での経験も良いだろう、一年間籍を置いておくから」と有難いお言葉を頂きました。しかし私は負け犬だけにはなりたくないとの思いも強かったので、私の選んだ道を進むことにしたのです。公務員試験に合格していたのですが、お役人の道はこうして私の前から永久に消えた瞬間でした。
マッチ会社とは播磨燐寸(株)(ハリママッチ)と言って商標である馬の絵柄のマッチ箱
は、普段目にしていたものの、会社名など覚えていなかったが、北海道、東北に強く、多くの代理店を持ち、業界第二位であることを初めて知りました。同級生からは"すごい会社に就職したな"と羨ましがられたものです。
残り少ない高校生活も有意義に過ごし担任の竹林先生との約束も果たし、卒業式は生涯忘れることの出来ない心に残るものでした。担任の先生の叱咤激励、友人たちの温かい友情等、たくさんの思い出を胸に、昭和37年2月後輩たちに送られ、まだ雪の残る母校を後にした。
こうして無事卒業出来たのも、貧しいながらも家族の血の出るような支援、部屋を無償で提供してくれた小稲の叔母、アルバイト先の家具店主、先生方のご指導等、おのおののご恩は今でも忘れるものではありません。
昭和37年3月15日、涙を流し続ける母と義姉に見送られ三本木駅を出発した。三沢駅で夜行列車に乗り継ぎ大きな夢と希望を抱き、一路東京上野へと向かったのでした。(つづく)〔昭和36年度農業科卒業〕