三農生の頃

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第10回
佐 川 孟 三

 2月の東京十和田会総会で、十和田商工会議所から副会長の岩間恵美郎さんがお見えになり、初対面の挨拶をして思い出した。恵美郎さん親戚の岩間岩男さんが、小生の三小、三農の1年先輩であった。十和田で活躍している名士が小生の知人や友人の子息か孫が多いので、会った方と同じ姓の知っている方の関係を尋ねることにしている。現在の石川正憲会頭は三農の校医であった石川清先生の次男である正之君の御子息であるという。その正之君は小生の三小の同級生で、急に距離感が縮まり話が弾むのが常である。

さて、前出の岩間岩男さんとアルゼンチンのかかわりを少し触れてみたい。高地抱一郎先生(S15 退職)が南米アルゼンチンでの牧場の体験を話してくれるので、当時の三農生はアルゼンチンに関心をもったものである。昭和12年3月、2人の卒業生がアルゼンチンの首都ブエノスアレスに就職することになった。農業科卒の杉山義喜先輩と農蚕科卒の岩間岩男先輩で、向こうでは花卉栽培に従事するらしいと聞いた。

 昭和初期の不況時に若者の海外雄飛が叫ばれ、特に昭和7年満州国が建国されてから

三農では卒業生の1割は満州に就職したが、日本から見れば最も遠い地球の裏側のアルゼンチンに就職するなどは驚天地動の出来事であった。翌昭和13年には小生の三小、三農農業科の同級生であった川越銀之助君と、昭和14年小生と同時に卒業した農業科の荒谷哲夫君の二人がアルゼンチンに行った。特に新谷君は剣道部で大将を、小生は先鋒で試合に臨んだもので、両人とも親しい友人であったので記憶が鮮明である。昭和15年以降も調査しようとしたが小生私事多忙となり時間を取れず、次回に報告したい。岩間社長の話では岩間先輩は健在らしいが90歳になるはずである。三小、三農と1年上級生との接触が密であったため、懐かしさが蘇り会いたくなった。

 高地先生のお話の中に、牧場で牛が死ぬと、皮は貴重なので剥いで天日で乾燥し、肉はコンドルの餌になると云っておられたが、肉の加工法が進歩しコンビーフにすることで、肉が100%利用できるようになり、人工革の進歩もてつだい肉と皮の価値が逆転した。

 60年ほど前、敗戦直後日本は食糧難で苦しんでいる時代に、麻布獣医の先輩の竹岸氏が、当時の日本から見れば信じ難い安い値段の馬肉を冷凍肉専用の大型貨物物船でアルゼンチンより運び、屠場で除け物みたいな豚の脂身と混合しソーセージやプレスハムに加工して大儲けし、株式一部上場の会社になった、貨物船の船名はプリマ丸で、日本ハム、伊藤ハムに次ぐ会社「プリマハム」誕生の一席である。

 高地先生の言によると、コロンブスのアメリカ発見で、南北アメリカからヨーロッパに数多くの食品が持ち込まれたことにより食生活が全く変わり、逐次アジアの植民地を経て日本にも伝わったが、その数の多いことには驚く。馬鈴薯はオランダ領ジャワからでジャガイモとなり、南瓜はフランス領カンボジアから伝わりカボチャになった。その他唐芥子、落花生、玉蜀黍、甘藷、七面鳥、実験動物のモルモット等と記憶しているが、はっきりしないところもある。また、現在は飛行機で短時間に世界中簡単に行けるが、当時船で太平洋を渡りパナマ運河を通り大西洋に抜けたが、方角からは西から東に進むが、運河のある地点で航行中日本の方角に向く瞬間があり、故国が懐かしく両手を合わせて拝んだ話を聞いたが、本当にそういう地点があるのか長年疑問に思っていたので、先ほどの作物の件と一緒に母校の先生に調べてもらい教えをいただき、小生の生きている間に自分の中で決着をつけたいと思っている。

 昭和16年12月8日、日本が米英と戦争を始めたが、米国の勢力圏であった中南米の諸国は、米国の圧力によって次々に国交を断絶したが、親日的であったアルゼンチンだけは、日本の劣勢が顕著になっても圧力に屈せず、日本の降伏が近くなった頃ようやく断絶に踏み切ったが、当時のアルゼンチンの好意を小生の年代の者は忘れないと思うのである。(昭和13年度獣医科卒業、元北里研究所員、医学博士)